
曹洞宗 脇侍仏像:瑩山禅師・道元禅師(柘植)金泥付
曹洞宗で釈迦如来の両脇に安置されます。
白檀での製作も可能です。


瑩山禅師・道元禅師の概要
( けいざんぜんじ・どうげんぜんじ )
曹洞宗の両大本山
曹洞宗には、二つの大本山があります。
一つは、曹洞宗開祖「道元禅師」が開いた大本山永平寺です。
もう一つは、曹洞宗発達の祖師「瑩山禅師」が開いた大本山総持寺です。
道元禅師
(曹洞宗の祖 道玄 仏法僧 承陽大師 1200から1253)
道元は、公家の子どもとして生まれましたが、
14歳のときに 比叡山に登って天台宗を学びました。
しかし道元は、天台の「本来本法性、天然自性身」の教え―つまり
「人には本来仏性があり、人は元来仏である」という考えに疑問を抱き、
それを解明すべく比叡山を下りて三井寺の公胤を訪ねました。
そこで「禅宗」の存在を教えられました。
以後、京都・建仁寺で臨済宗黄竜派の禅を学びながら、
三井寺で学問と修行の日々を過ごしました。
そして道元は宋に渡り、本格的な「禅」の学問を修め
長翁山の如浄と会う機会を得ました。
「参禅は、すべからく心身脱落なるべし」との如浄の教えに、
それまでの疑問がいっぺんに解消されました。
帰国後は禅の普及に努め、越前(福井県)の山奥に永平寺を建てて、
修行者の育成につとめました。
かれは何よりも座禅に専念することを強調し、
煩雑な教義にとらわれることなくひたすら座禅することを勧めました。
『正法眼蔵』
道元が弟子たちのために仏法の真髄を説いた書。
全95巻という大冊で、このなかで道元は自分の禅風を明らかにしています。
日本の哲学書の最高峰として、欧米でも高く評価されています。
瑩山禅師
瑩山禅師は、曹洞宗の基礎を築いた一人です。
瑩山禅師は、道元禅師が亡くなってから15年目に
越前多祢邑の豪族で誕生しました。
8歳のときに永平寺にのぼり、道元禅師から3代目の
徹通義介禅師のもとで沙弥となりました。
京都の寺々をはじめ、紀伊(和歌山県)由良の興国寺では臨済禅にふれ
その間、比叡山にものぼって天台教学を学びました。
瑩山禅師は、義介禅師を加賀(石川県)の大乗寺に訪ねます。
そこで義介禅師から大きな安心をもたらす教示を聞かされたのでした。
「平常心是道」(特別なところに仏の道があるのではない。
日常あるがままの心が仏道そのものである。)の教えです。
この教示を受けた瑩山禅師は、この心境を
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては、飯を喫す」と語りました。
この言葉は、喫茶喫飯ともいわれ、
お茶の時にはお茶を、ご飯の時にはご飯を頂く、
その当たり前の行いの中にこそ、仏の道・禅の道がある、という意味で、
これは瑩山禅師が悟りを得た証明であったのです。
定賢律師より真言宗諸獄寺の寄進を得ますが、これを総持寺と改め
多くの弟子を養育して曹洞宗の発展に尽くしました。
釈迦以来、禅の道を歩んだ人々が、どのようにして師匠に出会い、
法を受け継いでまた次の世代に渡したかを説き聞かせた『伝光録』を書きました。
また、『坐禅用心記』1巻を残して坐禅の仕方や
座禅中に起こる心の乱れをどのようにして防ぐかなどを親切に説き示しました。
後醍醐天皇より「十種の勅問」(仏法や、禅宗についての質問)があり、
その一つ一つに明確な回答をしたことに対して、
天皇は総持寺を日本曹洞宗賜紫出世の道場にするといい、帰依したのでした。
(商品名) | 曹洞宗 脇侍仏像:瑩山禅師・道元禅師(柘植)金泥付 |
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(商品番号) | ZO*en71*8*20 ZO*en71*8*25 ZO*en71*8*30 |
(寸 法) | 以下3寸法 仏身2寸 総丈:約18.5cm 巾:約10.4cm 奥行:約 6.8cm 仏身2寸5分 総丈:約23.0cm 巾:約12.5cm 奥行:約 8.3cm 仏身3寸 総丈:約28.3cm 巾:約14.5cm 奥行:約 9.5cm |
(仕 様) | 材質 : 柘植 ・ (白檀) ※瑩山禅師の持物は、如意仕様の時もございます。(指定はできません。) |
(納 期) | 要見積もり 納期は変動する場合がございます。正式な納期は、受注確認メールにてお知らせさせて頂きます。休業日を除く2~4日程お待ちください。 |
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曹洞宗 脇侍仏像:瑩山禅師・道元禅師(柘植)金泥付