法輪堂 拝観日記

奈良国立博物館 特別展『快慶展 日本人を魅了した仏のかたち』

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快慶展と聞けば、やはり観ておきたいと行ってまいりました。美しいだけでなく知識や信仰心や同じ思いの人々があった部分に触れられた特別展でした。



特別展
快慶 日本人を魅了した仏のかたち

2017年4月8日(土)~6月4日(日
奈良国立博物館

 快慶(?~1227以前)は、わが国を代表する仏師のひとりであり、鎌倉彫刻様式の完成に重要な役割を果たした人物として運慶と並び称されてきました。無位でありながら後白河院追善の造像に抜擢されるなど康慶の弟子の中でも特殊な立場にあった。こののち後白河院主導のもと重源により進められた東大寺再興造像。快慶は熱心な阿弥陀信仰者として造仏に臨んでいた。彼が生涯をかけて追及した実在感と格調の高さを兼ねそなえた阿弥陀如来立像の姿は、来迎形阿弥陀の一典型として長く受け継がれ、こんにち快慶の阿弥陀仏号にちなんで「安阿弥様(あんなみよう)」の名で親しまれています。快慶の代表的な作品を一堂に集めて、わが国の仏教美術史上に残した偉大な足跡をたどる試みです。

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第1章 後白河院との出会い
第2章 飛躍の舞台へ -東大寺再興-
第3章 東国への進出
第4章 勧進のかたち -結縁合力による造像-
第5章 御願を担う -朝廷・門跡寺院の造像-
第6章 霊像の再生 -長谷寺本尊再興-
第7章 安阿弥様の追求




第1章 後白河院との出会い

快慶は、運慶とほぼ同時代を生きた仏師で、運慶の師父・康慶の弟子とされる。その名が初めて登場するのは、運慶は発願して完成した法華経『運慶願経』であり、アメリカ・ボストン美術館弥勒菩薩立像がある。その三年後、醍醐寺の弥勒菩薩坐像は後白河院の追善のために発願し、経典や儀軌にもとづいて造立した如法仏であることが知られる。後白河院の生前没後の供養にかかわる造仏に快慶が起用された。



重文【弥勒菩薩坐像】(醍醐寺)

【弥勒菩薩立像】(ボストン美術館)

【阿弥陀如来坐像】(悲田院)

重文【深沙大将立像・執金剛神立像】(金剛院)


展示は【醍醐寺の弥勒菩薩坐像】から始まるようですが、4月25日からの期間展示なのでパネルがドカーンと飾ってありました。

運慶が発願し書写させた【法華経(運慶願経】(国宝)。硯の水に比叡山横川・園城寺・清水寺の霊水を用い、一行書写するごとに男女の結縁者が三度礼拝し、法華経の宝号と念仏を唱えたというもの。結縁者の中に快慶・実慶・宗慶・源慶といった仏師たちの名も見られました。まず最初にこの展示なので、単なる素晴らしい仏像を彫ることができた人でない真剣さがガツンと来ました。

醍醐寺の【弥勒菩薩坐像】が如法仏であることや後白河院の供養にかかわる造仏に起用されていたとのことで技術だけでなく知識の深さを感じました。

金剛院の【深沙大将立像】は、 玄奘三蔵を砂漠を救ったとされる守護神。上半身裸形で迫力ある姿ですが、太もも部分に象の顔なのです!「何か潜んでいる」と殺気を感じて、感じる先を注目すると象の鋭い目が!それが木肌とマッチしていて何かが潜んでいるか物語っているような感じを受けて目が釘付けになりました。とてもリアル。なぜ象なのだろう?色々お話が出てきそうですね。こういう意味ある謎があってすこしずつ縁あるときにわかっていくというのも仏像や仏教の魅力だなと思います。金剛院は舞鶴市鹿原にあるんですね

印象に残ったのは、京都悲田院の【阿弥陀如来坐像】京都勝龍寺【菩薩立像】

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左:【四天王立像のうち広目天】(金剛峯寺) 第2章
真ん中:【釈迦如来立像】(米国・キンベル美術館蔵) 第6章
右:【弥勒菩薩坐像】(醍醐寺) 第1章


第2章 飛躍の舞台へ -東大寺再興-

 重源は、各地に信仰及び勧進活動の拠点となる別所の建立を進めたが、その造仏を一手に引き受けたのも快慶であった。重源の熱烈な文殊信仰を快慶が具現化した阿倍文殊院は、南大門金剛力士像とともに東大寺再興造像における記念碑的作品である。


重文【重源上人坐像】(醍醐寺)

重文【阿弥陀如来立像】(裸形)・菩薩面】(浄土寺)
菩薩面は眉と黒目部分が面の中の人が見ることができるように開けられています。

重文【四天王立像のうち広目天・多聞天】(金剛峯寺)

重文【深沙大将立像・執金剛神立像】(金剛峯寺)

重文【如来坐像】(新大仏寺)

重文【南無阿弥陀仏作善集】(東京大学資料編所)

国宝【金剛力士立像 像内納入品】(東大寺)

重文【阿弥陀如来立像】(東大寺)
心掴まれたのがこちら。 右手部分の胸に差し込まれた衣部分と手にかかっている部分の垂れの部分。同じようであっても他とはちがうように感じました。それと蓮華の台座の下の"雲"!!なんでしょう、他の快慶の阿弥陀如来像もあるのにこの像にとても惹きつけられました。右手の衣部分のキリっと感が崇高な感じがして、木肌がいきた雲の荒さ(?)が自然を感じて今日のお気に入りナンバーワンでした。

国宝【僧形八幡神坐像】(東大寺)
金箔と彩色されているので遠くからもパッと目に入ってきました。中でも
衣の彩色の模様の色付けが布生地のように見えたのが不思議で近づいて見せて頂きました。近づいても布地の染めのように見えた不思議です。

東大寺の【阿弥陀如来立像】に心掴まれたのが、 右手部分の胸に差し込まれた衣部分と手にかかっている部分の垂れ。それと蓮華の台座の下の雲!!なんでしょう、他の快慶の阿弥陀如来像もあるのにこの像にとても惹きつけられました。右手の衣部分のキリっと感が崇高な感じがして、木肌がいきた雲の荒さ(?)が自然を感じて今日のお気に入りナンバーワンでした。

東大寺の【西大門勅額付属八天王像】は、帝釈天・梵天が宝冠をかぶり片膝を立てた姿で左右に、阿形・吽形に四天王。像で護られている総国分寺の門を飾る勅額の風格に心打たれました。

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左から
【僧形八幡神坐像】(東大寺) 第2章
【深沙大将立像】(金剛院) 第1章
【大日如来坐像】(石山寺) 第3章
【阿弥陀如来立像】(遣迎院) 第4章

第3章 東国への進出

快慶の東国に所在する、あるいはかつて伝来した各省のある作品はわずか二件と意外なほど少ない。広島・耕三寺阿弥陀如来坐像 栃木・真教寺に伝わる阿弥陀如来立像


重文【阿弥陀如来坐像】(耕三寺)

【菩薩坐像】(伊豆山浜生協会)

重文【大日如来坐像】(石山寺)


第4章 勧進のかたち -結縁合力による造像-

鎌倉時代にはいると老若貴賤を問わず多数の結縁と合力により造仏が行われるようになった。快慶が手がけた京都・遣迎院阿弥陀如来立像は、像内に奉籠された血縁光名によれば過去者をふくむ約一万二千名もの人々が血縁したことが知られる。快慶の端正な姿の阿弥陀如来立像の成立とほぼ同じくして、多数の血縁合力を募る組織的な勧進のかたちも成立したことをしめす点で重要である。京都・浄土宗阿弥陀如来立像は、源智が師法然の恩徳に報いるため、その一周忌を期して発願し、四万から5万名もの人々が血縁して造立された法然教団にとって記念碑的作品。


重文【阿弥陀如来立像】(遣迎院)

重文【善導大師坐像】(来迎寺)
片膝を立てて念仏を唱えているパワーあふれる像でした。善導の念仏が寒冷の気候でも汗を流すほどのものであったとされているので力強さを感じるのですが、目線は念仏を唱えた時の目で一心さを感じます。善導大師は今まで絵での印象は静かな感じだったので、印象の違いに驚きましたがこれも像での表現というものかと新鮮でした。

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【大日如来坐像】(石山寺)

第5章 御願を担う -朝廷・門跡寺院の造像-

重源が逝去したのを一つの画期として、快慶は朝廷や門跡寺院の造像により深く関わってゆくこととなる。なかでも後鳥羽院の護持僧として活躍した慈円による青蓮院関係の造像は重要である。熾盛光堂の曼荼羅諸尊像は、天変地異など国家的な災厄を除く熾盛光法のための像というきわめて格の高い仕事であった。印派仏師や運慶の長男湛慶に肩を並べて、天皇や貴顕による発願すなわち御願を担うことにより、仏師としての地位はよりたしかなものとなった。


重文【不動明王坐像】(醍醐寺)

重文【兜跋毘沙門天立像】(青蓮院)

重文【金剛薩埵坐像】(髄心院)

【後鳥羽上皇逆修僧名等目録】に、 「あん阿弥陀仏 仏師くわいけい」と書かれているのを見つけ、平仮名っていうのが新鮮でした。




第6章 霊像の再生 -長谷寺本尊再興-

建保7年に焼失した大和国長谷寺本尊の十一面観音像の再興は、快慶を大仏師として着手された。『長谷寺再興縁起』に快慶をして「その身浄行なり、もっとも清撰にたるか」とあるのは、仏師持戒を守るなど造仏作法にのっとって如法に造立したことをしめしている。快慶再興像はその後火災で失われたが、これと同じ御衣木を用い、弟子長快が忠実に模した十一面観音立像(三重・パラミタミュージアム蔵)が見出された。その姿は快慶再興像を髣髴させる。東大寺勅額に付属する八天王像が快慶作とほぼ確かめられ、「巧匠/法眼快慶」銘を有する大阪・藤田美術館地蔵菩薩立像が興福寺伝来と確認された。


重文【十一面観音立像】(パラミタミュージアム)

【釈迦如来立像】(キンベル美術館)

第4章もたくさんの人の力でというものも興味深いですが、この章が作り手側の事情や責任や受け継ぐ思いなどを感じさせられ印象深い章です。焼失した像と同じ木を使って忠実に模した像があるなんてすごいじゃないですか。これを見てまた快慶の長谷寺の像が見たかった思いもまた出てきました。

 

第7章 安阿弥様の追求

快慶は、法然(1133~1212)をはじめとした浄土宗教団の僧侶たちと親交が深かった。そのことも反映して、像高3尺(約90㎝)前後の来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像、いわゆる「三尺阿弥陀」の遺品が際立って多い。次第に衣文線や襟のたるみを増やし、衣縁の波打ちを装飾的にすることで形式美を追求しつづけた。平安時代後期の平明なかたちを基調としつつ、そこに現実的な感覚を付与することで確立した、親しみやすさと格調の高さを兼ねそなえた阿弥陀如来立像の姿は、来迎形阿弥陀如来の一典型として長く受け継がれた。現在では、快慶の阿弥陀仏号にちなんで「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれている。

【京都・極楽寺阿弥陀如来立像】の像内文書から「過去法眼快慶」の文言より快慶は行快とこの像に携わったものの嘉禄3年にはすでに没していたと判明。快慶が関わった最後の作品がほかでもない阿弥陀如来像であったことは、熱心な阿弥陀信仰者として生きた彼の生涯を象徴しているように思われる。


重文【阿弥陀如来立像】(西方寺)

重文【阿弥陀如来立像】(極楽寺)

安阿弥様の3形式の違いのパネルがありました。藤田美術館の彩色の地蔵菩薩立像も「これぞ快慶」と思わせる美でした。

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グッズ販売の隣にほぼ原寸大の金剛力士像との撮影コーナーがあります。
法輪堂の店主、何しているのかなと見てみると、
阿形・吽形の顔をして自撮りしていました。(笑)

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特別展 快慶 (奈良国立博物館HP)




たくさんある阿弥陀如来像の中でも一番惹きつけられた東大寺の阿弥陀如来立像 ↓






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