法輪堂 拝観日記

奈良国立博物館 『忍性 -救済に捧げた生涯-』展

「救済に捧げた生涯」...副題になっているということはどのような展示になっているのかと興味を膨らませつつ「忍性展」へ行って来ました。

内容は、個人的なツボにドストライクの展示となっていてテンションが上がりっぱなしでした。最初からネタバレいいですか?大きな展示室でかなりの距離はあるものの忍性菩薩坐像の展示から始まり、その向かい合わせには行基菩薩坐像があるのです!この演出は、にくいですね。ドストライクです。

他にも書き物の展示で抜粋して現在訳をされているこの抜粋部分がツボを外しません。ご覧になった方で同じツボをお持ちの方にしかわからないテンションですみません。それだけツボをくすぐられる内容の展示でした。


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生誕800年記念特別展
忍性 -救済に捧げる生涯-

2016年7月23日(土)~9月19日(月・祝
奈良国立博物館

 良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
 後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興よ社会事業を展開します。
 人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈されました。
 来年、平成29年(2017)は忍性の生誕800年にあたります。本展では忍性ゆかりの寺院に伝わる名宝や文化財を一堂に集め、奈良生まれの名僧の熱い人生とその偉業を偲びます

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第1章 忍性 -慈悲に過ぎたひと-
第2章 文殊菩薩をもとめて -南都・額安寺時代-
第3章 律僧として -南都・西大寺時代-
第4章 暁の地をめざす -常陸・筑波時代-
第5章 大願に生きる -鎌倉・極楽寺時代-
第6章 救済の日々 -勧進僧の時代-




第1章 忍性 -慈悲に過ぎたひと-

僧侶となり、前半生を奈良、後半生を関東の寺々で過ごし、87年の生涯をひたすら人のために尽くした。西大寺の叡尊は、弟子ある忍性を「慈悲に過ぎた」者と評し、その慈悲ゆえに「利生」(人助け)でこれに勝るものはいないとも褒めている。(『興正菩薩御教誡聴聞集)



展示は【忍性菩薩坐像】(神奈川県・極楽寺)からはじまりますが、180度ぐるりと後頭部・首も見せていただいてリアル感に浸っているところに次は掛軸【忍性菩薩像】を見ると、同じく払子を持っていられるお姿ですが赤い大きな鼻に目がいきます。像と絵ではちょっと印象が違いますが、お優しそうで親しめそうなお人柄が伝わって来るようでした。


第2章 文殊菩薩をもとめて -南都・額安寺時代-

 母の願いを受けて僧侶となった忍性は、亡くなった母の菩提を弔うために各地で文殊菩薩の供養を行い、毎月25日には不断の文殊念仏を唱えたという。(『金剛仏子叡尊感身学正記』)。経典によれば、文殊菩薩は貧病者の姿で修行者の前に現れるという。忍性が貧窮者の救済に尽くしたのは、文殊菩薩に向かう道だったのである。
 16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。同寺伝来の文殊菩薩騎獅像がある。19歳の夏、竹林寺(奈良県生駒市)で行基の舎利瓶が発見された。行基は奈良時代の僧侶。民衆に愛され文殊菩薩の化身と呼ばれた人物である。


重文【虚空蔵菩薩坐像】 奈良時代(文化庁)
額安寺に伝来した像で、日本現存最古の虚空蔵菩薩像。
五百余年の間に損壊したため修理が行られ、西大寺叡尊が開眼供養を行った。

般若寺の重文【文殊菩薩騎獅像】の展示は前半だったので、見ることができませんでした。とても興味深かったのが、良福寺の本尊として伝来した文殊菩薩騎獅像の中にあった印仏。紐綴じされた単語帳のような小紙片に文殊菩薩印仏と願文が書かれていました。一綴りの枚数の分厚さに一枚一枚込められているものを感じさせていました。

西大寺の重文【文殊菩薩騎獅像】の展示(前期)もあったようですが、
気になったのが 個人蔵の重文【文殊菩薩騎獅像】
獅子に乗った八つの髻をもつ文殊菩薩。八次文殊は左手に金剛杵があしらわれた梵篋が載る蓮花茎、右手に三鈷剣を執り、下方周囲に合掌する善財童子と八大童子。下方左右に胎蔵界と金剛界の種子曼荼羅。西大寺伝来の文殊菩薩騎士像と同寸動図様の作例。西大寺で学んだ律僧・文観房弘真の自筆。非母の五七日供養のため弘真が筆を執った。忍性は母の十三回忌に際し文殊像を図絵して供養を行っており、本図も忍性を先例とする西大寺流律宗に継承された非母供養を目的とする文殊画像製作の具体的事例。供養のたびに文殊菩薩に関した絵や写経をしたというのが、供養に対する気持ちの深さを感じ、そこまで文殊菩薩と決まっているのがぶれない信仰の真剣さであり深さというか縁の深さがすごいと思いました。

【尊勝曼荼羅】 鎌倉時代(奈良・宝山寺)

重文【首掛駄都種子曼荼羅彩絵厨子】 鎌倉時代(奈良国立博物館)

額安寺型の法具
【金剛独鈷杵】鎌倉時代(奈良国立博物館)
【金剛三鈷杵】 鎌倉時代(京都国立博物館)

重文【行基菩薩坐像】 鎌倉時代(奈良・唐招提寺)
竹林寺に伝来し、明治期に唐招提寺に移された。
忍性は19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺では行基の舎利が発見された。
行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範とするとするところが大きかったであろう。

重文【金剛舎利容器】 鎌倉時代(唐招提寺)
蓮台形舎利容器。蓮肉部分を大きく刳り込んで舎利3粒を奉籠し、水晶製の板を嵌めている。側面に独鈷所・三鈷杵を取り付けている。納められた舎利は釈尊の遺骨ではなく、行基菩薩三生の舎利と伝えられている。

第3章 律僧として -南都・西大寺時代-

23歳の忍性は、西大寺の中興開山 叡尊と出会う。叡尊は忍性に西大寺に入り律宗の僧侶として活躍することを勧める。律宗は仏教の原点である釈迦とその教え「戒律」を遵守する宗派。西大寺真言密教の要素を取り入れた活動を展開。忍性はここにおいて仏法の学を深め、新たに「興法利生」(仏法を興隆し、人々のために尽くす)の理想を掲げ、波乱の後半生へと進む。



重文【興正菩薩叡尊坐像】 鎌倉時代(神奈川県・極楽寺)
神代から神武天皇を経て持統天皇(697年退位)の時代までの出来事を編年体で記す『日本書紀』。中国で歴代王朝ごとに作成されていた正史にならい、わが国で最初に編纂された国史。

重文【興正菩薩御教誡聴聞集】(奈良・西大寺)
叡尊の弟子が、師の説教を聞き書きしたもの。弟子忍性に関する話も納められた。
「学問シテ益広事」では、忍性は学問の器ではないと考え興法利正に励んでいたが、僧侶から律などの質問を受け答えられたことから、西大寺での修学に意味があった時が気がついた。

第4章 暁の地をめざす -常陸・筑波時代-

45歳、鎌倉幕府との縁を持って拠点を鎌倉に移す。51歳で極楽寺(神奈川県鎌倉市)に入り、後々百を超える堂塔を擁した大伽藍に発展させた。同寺の本尊釈迦如来立像と十大弟子立像は忍性発願の彫像である。また、戒律を日本にもたらした鑑真和上の生涯を描いた東征伝絵巻は、和上への思慕と戒律を尊ぶ忍性の心根を伝えるものである。55歳にして発した「忍性菩薩十種大願」には、病気や貧困にあえぐ人のみならず、道端に捨てられた牛馬にまで慈悲を注ぐことが誓われている。


【三村山極楽寺結界石拓本】 (茨城・土浦市立博物館)
筑波山の周辺に認証が関東律宗の拠点とした三村山極楽寺がある。「三村山 不殺生界」と刻み、当該領域では生き物を殺すことを禁じることを示す。音声ガイドによると、この結界石拓本を建てられた時に隣山の猿も移動してきたというような話がありました。

【如意輪観音坐像】 (茨城・観音寺) 観音寺は文応元年(1260)の忍性による中興という。本像の建立は常陸での活動期と重なる可能性がある。 忍性の師である興正菩薩叡尊は日本仏教の教主としての聖徳太子を信仰するとともに、その化身とみなされた如意輪観音への信仰も有していた。

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第5章 大願に生きる -鎌倉・極楽寺時代-

45歳、鎌倉幕府との縁を持って拠点を鎌倉に移す。51歳で極楽寺に入り、後々百を超える堂塔を擁した大伽藍に発展させた。55歳にして発した「忍性菩薩十種大願」には、病気や貧困にあえぐ人のみならず、道端に捨てられた牛馬にまで慈悲を注ぐことが誓われている。


重文【釈迦如来坐像】 (神奈川・極楽寺) 転法輪印を結んで結果座ふざする等身大の釈迦如来像。

【極楽寺絵図】 (神奈川・極楽寺)


重文【東征伝絵巻】 (奈良・唐招提寺)
わが国における律宗の開祖である唐僧・鑑真和上の生涯を全5巻に絵画化した高僧伝絵巻。

重文【釈迦如来立像】 (神奈川・極楽寺)
重文【十大弟子立像】
極楽寺の本尊像。三国伝来の釈迦として信仰を集めた京都・清涼寺の本尊釈迦如来立像の模像としての特色を顕著に示す。



第6章 救済の日々 -勧進僧の時代-

晩年の忍性は寺院の復興事業にも邁進する。76歳で奈良に一時帰還した忍性は朝廷より東大寺の大勧進に任命され、蒙古来襲においては異国退散の祈祷を命じられる。鎌倉に戻り、身命を賭した雨乞い祈祷を成功させた後、静かに臨終を迎えた。遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人助けに奔走した忍性の人徳を偲び、後醍醐天皇は菩薩号を追贈している。菩薩を求め菩薩になった87歳の生涯であった。


【六角台座】 (奈良・法隆寺)
天板裏面の墨書より、額安寺の御塔の本尊として忍性が調進し、配下の二僧を使者として鎌倉から西大寺に一旦納め、その後額安寺に安置された仏像の台座であることがわかる。

【文殊菩薩五尊像】 (奈良・唐招提寺)
行基墓所のある生駒市竹林寺に伝来し、衰退に伴い行基菩薩坐像とともに本寺の唐招提寺に移された。騎獅文殊が四従者を伴う渡海文殊の像である。西大寺流の文殊信仰のもとで制作された。

重文【額安寺五輪塔(忍性塔)納置品】
重文 【竹林寺五輪塔(忍性塔)納置品】
重文【極楽寺五輪塔(忍性塔)納置品】


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奈良国立博物館にも蓮の花が咲き始めていました。


忍性ゆかりの寺院

●奈良県内
【信貴山朝護孫子寺】 信貴山真言宗の総本山。
忍性は、11歳のときに信貴山に登って仏教を学んだ。忍性が仏道を歩み始めた最初の地が信貴山。

【額安寺】 
聖徳太子が祇園精舎に倣って創建した熊凝生者の跡地に三諭宗の僧・道慈が額田氏寺として建立した。母の死を迎えた忍性は、その菩提を弔うため額安寺に籠り出家した。忍性没後、遺骨は額安寺にも分骨された。

【阿倍文殊院】 華厳宗東大寺の別格本山。
本堂には快慶作の国宝・文殊菩薩五尊像を安置。忍性は出家後、母の滅罪と追善を祈るため、毎月参詣したという。

【東大寺】 華厳宗大本山。
聖武天皇が盧舎那仏造立の勅を発布し、行基の勅進のもと国家護符の寺として造営された。開祖は良弁。唐僧・鑑真により戒壇院が設立された。17歳の忍性は東大寺戒壇で受戒する。綸旨によって東大寺第14代大勧進に任命され、およそ5年間在任した。

【竹林寺】 生駒山麓に所在。
寺伝には行基の開基。境内には行基墓がある。行基が文殊菩薩の化身とされたことにちなみ、文殊菩薩を本尊とする。忍性は行基舎利瓶が掘り出されてから6年間参詣したという。没後は、額安寺、極楽寺とともに遺骨を分骨された。

【唐招提寺】 律宗総本山。
唐から戒律を伝えた鑑真和上が新田部親王の旧宅地に私寺として開いた「唐律招堤」を前身とする。忍性は、本寺の住持であった覚盛に戒律を学んだ。忍性は鑑真の生涯を描いた「東征伝絵巻」を施入した。

【西大寺】 真言律宗総本山。
考譲上皇の発願により造営される。戒律復興の中心道場となる。忍性は叡尊を師として本寺に入り、西大寺流律宗の一員として活躍した。

【般若寺】 真言律宗寺院。山号は法性山。
荒廃するも叡尊、忍性が文殊菩薩像を造像するなど、西大寺の律僧たちがその復興を進めた。

●関東
【三村山極楽寺】 
茨城県にある筑波山の南の尾根、宝鏡山に所在した寺院。忍性が入りか律院化した。結界は忍性によるもの。にんしょうはここを中心として北関東一円に教線を拡大し、10年を過ごしたのち、鎌倉の極楽寺へと移った。

【宍塚般若寺】 茨城県土浦市宍塚の北側に所存。
真言宗豊山派。竜王院釈迦院と号する。
寺伝では平将門の次男将氏の娘、安寿姫の開祖。
忍性によって結界にされ律院化した。

【極楽寺】 
真言律宗寺院。山号は霊鷲山。
北条bの重時の招きで忍性が中興開祖となり没するまで鎌倉での活動の拠点とした。
本尊は清涼寺式釈迦如来立像。
奥院には忍性の墓といわれる石造五輪塔が建ち分骨された遺骨を納めた骨蔵器が伝わる。

【称名寺】 真言律宗の別格本山。
金沢山称名寺と号する。

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忍性、行基、叡尊、文殊菩薩、聖徳太子と繋がる。その繋がりにとても興味深く感じました。


「興正菩薩御教誡聴聞集」や「三村山極楽寺結界石拓本」のエピソードで楽しく親しめました。

展示名で想像していたのとは違いを感じたのは、「忍性は、想像以上にパワフルだ!」ということ。「極楽寺図」にみる大きく広がる展開と、極楽寺の釈迦如来立像・十大弟子像の短期間での仕上がり。捧げると言われれば穏やかやさしいとほんわかしているイメージですが、事実を見るときっと活動的でもあったのかと思いました。理解と興味の深まる見応えのある展示で大満足でした。











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